蓼科の今

諏訪ゆかりの人々 明智光秀

2021.02.12

こんにちは。本日のブログ担当の岩下です。今朝8時の気温は-2℃、天候は曇りとなっております。

 戦国時代の武将、明智光秀(1528?~1582)を描いた大河ドラマが、先日最終回を迎えました。
 ドラマでは触れられませんでしたが、本能寺の変を起こす2ヵ月前、光秀は主君織田信長と共に、武田征伐のため諏訪地方へ出陣していました。

1.210212本堂.JPG


1582年(天正10年)3月、織田信長の長男信忠は甲府へ向かう途中、武田の信仰が厚かった諏訪大社上社を焼き払いました。
 上社に隣接する法華寺は本堂や五重塔が焼け残り、後から到着した信長が同寺を本陣として2週間ほど逗留しました。

2.210212明地屋敷諏訪藩主手元絵図.jpg

2b.210212大年神社.jpg
その間、同行している武将は諏訪周辺に分かれて滞在していましたが、明智光秀は現在の茅野市塚原(永明寺山墓地公園のふもと付近)や、茅野駅西口の大年神社近くに陣を構えていたようです。それらの場所は、諏訪藩の地図に「明地屋敷」「明地家老やし記」として記載が残っています。

 他にも武将が滞在していましたが、明智だけが地名として残っていたのは、諏訪大社上社を焼き払った織田を討ち取ったからではないかとも言われています。

3.210212高部 祠.jpg

3b.210212明智 御紋.JPG
また、茅野市高部にある藤森照信氏の建築「空飛ぶ泥舟」の近くには、「明智の紋」が付いているとされる石の祠が残っています。ただし、祠は風化し、その由来はよくわかっていません。

 信長は法華寺滞在中に、軍を二分して模擬合戦(訓練)を行いましたが、光秀が信長に勝ってしまったとの逸話があります。また、滞在中、光秀の発言内容を咎め、諸大名の前で小姓に頭をたたかせるなどしてはずかしめたとの記録もあり、その事が本能寺の変につながったのではないかとも言われています。

 大河ドラマの余韻が残るいま、諏訪地方にも残る光秀ゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか

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