蓼科の今

信濃の国

2021.08.17

皆様こんにちは。
本日8月17日、蓼科はどんよりと曇った空・・・。
雨もまた降り始めて先日の災害をもたらした荒天から未だ回復していない
状況でございます。
被害にあわれた方、影響を受けてしまいご予定の変更を強いられた皆様、
そして被害地域で復旧活動に従事されておられる皆様、
1日も早く元の生活に戻られることを心よりお祈り申し上げます。

茅野市にも一部被害がみられるなどしておりましたが、
現在(8/17 10:30)は警戒レベルが3に下がっている状況です。
蓼科東急タウン内につきましては特段大きな被害などは無く、
予断を許さない状況ながらちょっと一安心といったところでしょうか。
お客様が安全に楽しい1日を過ごせるよう、
スタッフは各セクション情報共有を密に取り合いながら、
本日も務めて普段と変わらぬよう営業開始でございます。
(サムネイル画像は現在のグラマラスダイニング蓼科です)

さて、本日のブログ。
突然ですが、「信濃の国」という歌ご存知でしょうか?
「信濃の国は十州に、境つらぬる国にして・・・」
という歌詞から始まる県歌です。
今日はこんなお話を一つ。


長野県、大きいですよね。
長野県の面積は13561.56k㎡
もはや規格外の北海道(83,424.22k㎡!!)を1位として長野県は
47都道府県の中で第4位の面積!
北信、東信、中信、南信と大きく4つの地域に分かれるのですが、
地理的要因に基づく便宜上の分け方とは別に、
過去、長野県は信濃から廃藩置県によって
分割されていた時期があるってご存知でしたか?

長野市.jpg

明治4年廃藩置県直後は、北信2郡と東信4郡を合わせて「長野県」

筑摩市.jpg

それに対して南信3郡と中信4郡そこに飛騨の国を合わせて「筑摩県」
という2つの県に分かれていたのです。


これが現在の「長野県」の形になるのは明治9年。
過去長い歴史の中で為政者或は権力者の影響力の下、
「信濃」は図らずも分割され続けてきたわけですが、
この明治9年の改正において、初めて信濃は一つに「統一」されたとも言えます。

とはいえ・・・、
筑摩県として独立した自治体であった中南信側には
根強い分割独立を求める声があったのも事実。

事ある毎に度々起きる分県運動の中でも、最も有名なのが、
昭和23年の分県運動でした。
松本を中心とした分県運動は同年3月の県議会において分県案を採決するという
ギリギリの所まで追い詰められた状況でした。
議員定数60名のうち、
北信側議員29名(欠席1名)、南信分県推進側の議員30名・・・。

採決に持ち込めば南信側の勝利。

県議会の議決を元に、分県は一気に加速しかねないそんな緊迫した空気の中、
傍聴席からふと聞こえてきた歌声。

「信濃の国は十州に、境つらぬる国にして・・・」

あの「信濃の国」を歌い始めた方々がいたのです。
歌声はやがて傍聴席の市民による大合唱となり、
分県賛成派反対派を分け隔てなく包み込みます。
涙声も混ざるその合唱は、議会を動かし、採決は延期・・・
そしてついに廃案されるに至ったという奇跡のような逸話・・・。

そりゃそうですよね。
「信濃の国」は「信濃」が一つの国であるからこそ歌える歌。
分割された瞬間から、
「信濃の国」は誇りを胸に歌うことが出来なくなってしまうのです。

この逸話が史実であったかどうかはわかりませんが、
1,000年を超える歴史の中でようやく一つに纏まった
「信濃」という国への郷土愛は、
恐らくとてつもなく熱く強いものだったのではないかと想像できます。
その郷土愛は為政者の都合とは関係なく人々の心の中に根差すもの。
史実であったとしても何の不思議もない・・・。
そんな郷土に対する熱い情熱を感じるお話でございます。

・・・つい先日、
所用があって長く地元にいらっしゃる方のお宅へお邪魔した際、
その客間の欄間に掲げられていたのが「信濃の国」の歌詞・・・。

あ~・・・、信濃の国、長野県にいる事に喜びと誇りを持っているのだなぁ・・・。

何となく根無し草のように自分の故郷が分らなくなっている自分にとって、
ふと、羨ましく思った瞬間でございました。

本日のブログは長野県、そして蓼科をわが故郷としてこっそり郷土愛を深めている
兵藤がお送り致しました。

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